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プロフィール

Awakes(統心)

Author:Awakes(統心)
自称・真理探究35年。
覚醒ナビゲーター。
大阪市在住。
意識進化について独自の研究をして参りました。

関西ヌーソロジー研究会を主宰しています。

~人類が神を見る日~ について皆さんと共に徹底的に探求して行きましょう。

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[20151101]
現在、こちらのブログは更新を休止しています。

しばらくの間、別ブログ「自分教ガイド」の方で集中して更新していくつもりです。

以上よろしくお願いします。

2015/11/01
Awakes統心
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[20141105]
前回の記事の続き。これも別ブログ「自分教ガイド」にて掲載しました。

**********************
いま、なぜ「空即是色」なのか。パート2
それでははじめましょう、前回の続きです。

「色即是空」とは分かりやすく言えば「この世に実体はない」ということでした。全てが関係性であり確固たる実体はないということです。すべての現象(色)は単独で現れるものではなく関係性によるものであり、関係性とはよく見れば中身のないフレームワーク(枠組み)のようなもの・・・ということでしょうか。

このことは現代物理学で言えば粒子性と波動性によく例えられそうです。素粒子は確固たる粒子なのかと言えば実はそうではなく、確率的に存在する波であり、原子核の周りを回る電子の場合、粒子というよりは電子の周りに確率的に分布する雲(電子雲)のような存在であるという具合に。粒子が色で波動が空みたいなものとして(粒子は局所的で色、波動は非局所的で空)。厳密に言えば波動も「色=現象」ですが、あくまでも色と空の関係の比喩として。
電子雲

現代物理学は色即是空を地で行っていると前回お伝えしましたが、このようにここまでの理解は多くの人ができるようになりました。このことは昨今のスピリチュアルな世界観には大きな影響を与えています。さて問題は次の「空即是色」とは何ぞや、ということでしたね。

空即是色を単純に「色即是空を言い換えたもの」「繰り返しによる強調」・・・と捉えるのが従来の一般的な解釈でした。「この世の現象すべては関係性によるものであり確固たる実体はなく、しかしながらその関係性とは必ず実体をともなって現れるものである」こんな解釈が一般的なところです。繰り返しによる強調。

で、それに噛みついたのが上座部(小乗)仏教の長老や苫米地氏ら。彼らは従来の解釈が「空と色の概念を同レベルで扱うことの間違い」として指摘。空は色の上位概念なのだと。だから色即是空は例えば「リンゴは果物である」となって言えるが、空即是色は「果物はリンゴである」となって意味不明の命題になると。その代替案として苫米地氏が出してきたのが「色即是無・無即是色」。この場合、色と無は同レベルの概念なのだという。これは先の粒子性と波動性の概念と似ている。素粒子は粒子でもあり波動でもあるという。この場合は「存在は有るとも言えるし無いとも言える」という意味になる。粒子性の時は「ここ・そこにある」と言えますが、波動性の時は「ここ・そこにある」とは言えません。不確定な存在となってしまいます。

ここでヌーソロジストの立場から整理をしてみる。前者の一般的解釈では、色即是空・空即是色を「言い換えによる強調」・・・①と捉えた。後者の上座部仏教では空は色による上位概念であるために空即是色とは言えない、間違いであると捉えた、つまり「色即是空と空即是色には差異がある」と捉えたのである・・・②。だけど、それで出てきた苫米地氏の「色即是無・無即是色」は①の立場と同じだろう。「言い換えによる強調」、空を無と言い換えて再現しただけ。

ヌーソロジストとしては②に魅力を感じる。空即是色は単なる色即是空の言い換えなどではないということ。それで上座部ブッディストは空即是色を論理的間違いとするのだが、ヌース的にはそうではないと見る。否、ここにこそ人間を超越するカギがあるのだと前回言い放った。ふう、やっとここまできた。ここからやっと続きですね。毎回前置きが長くなるのは悪いクセ。


空即是色とは何だろうか。空とは普遍的、一般的、最高抽象度の概念。それに対して色とは個別的、特殊的、最低抽象度の概念(思いっきり具体的ということ)。空は非局所的(どこにあるとも言えない)であり色は局所的(どこそこにあると明確に言える)だ。空は神とも言える。それに対して色とはべたべたの個物。「べたでごめんなさい」と言えるほどの個物。全然スマートでもエレガントでもないドサ周り的存在。なるほど空と色は正反対の概念であり、かつ空が色に対して上位概念であるということには私も同意する。

最上位概念である空が最下位概念である色と同じだという論理は確かに意味不明だ。論理として矛盾している。しかしその矛盾性がそのまま成り立っている世界があるのでは?と言いたい。個物をしっかりと眺めてみて欲しい。例えば目の前にある一本のボールペン。べたべたの個物だ。どこにでも売っている、一本100円のボールペン。もうインクが無くなりかけている。書けなくなって捨てられるのも時間の問題だろう。このヤツは○○社が昨年出荷した何百万本の内の一本なのだろう。何百万本のどれもが同じ品質で大差はない。だからこのペンもインクが無くなれば用済みで別のヤツにとって変わられる。他のものと何の違いもないただのペンだ、このペン一本がどうなろうと世界や地球の歴史に何の影響もない、要するに字が書けるという以外に別に価値なんかありやしないさと君は言うかもしれない・・・・・・果たしてそうだろうか?

そのペンは何百万本の同じペンの中で、たった一つの経路を通過していま私の目の前に現れたのである。配送業者からどこそこの倉庫に移動し、とある商店で働く○○氏が家族問題で悩みつつも期日に間に合わせようとやっつけ仕事で箱詰めした中にあって、○月○日に△△氏によってまさにつまみ上げられ袋詰めにされた後、宅配業者の××氏の手によって△月△日に私の所にやって来たのだろう。またそのペンが作られる前の材料の段階にまで遡るとさらに複雑な道をたどることになる。プラスチックの元になる石油の段階にまで遡り、その石油は○○国からタンカーで運ばれてきたのだろう。そして○○国の油田の中で何千年という歳月を経ていたに違いない。さらにその前は数億年に遡りとある植物の一部であって・・・物質不滅の法則を前提とすれば限りなく遡ることになる。もはや宇宙の歴史とまったく同等・同質になっていることに気づくはずだ。

たった一本のペンの中に宇宙全体の歴史と同等・同質・同規模のものが含まれているのである。ペンだけではない。道端の石ころひとつ、机の上につもるチリやホコリですらそうだ。生命ではない無機物でもこうなのだから、有機体、アリとか蚊など小さくても生命ならなおさらのこと。生命の場合なら、その生命のリレーは決して途中でとぎれることは許されないのだから、どこまでも遡ることになり、最終的には我々人間の生命とも同じ起源にまでたどり着くことになるだろう。

歴史的な「深み」だけではない。こうして見ていくと「具体的である」「個物」であるということ自体の中に、普遍性を感じなくはないか。唯一無二とか唯一絶対という言葉がある。唯一ということは無二でありすなわち絶対。絶対とは永遠・普遍と同じことだ。「個物」であるということがそのまま普遍的な価値を持っている。いわゆるオンリーワン。「ナンバーワンにならなくてもいい~、もともと特別なオンリーワン~~~♪」て歌があったけど、それ。

繰り返す。オンリーワン、個物であること自体が普遍性・絶対性を体現しているということ。「神は細部に宿る」という言葉もあるが同様の意味だ。普遍性と個別性が同じ、一般性と特殊性が同じだということ。これが「空即是色」の意味ではないか。空という普遍性・上位概念と色という個別性・下位概念には何の違いもない・・・ここで上下をひっくり返しているのがお分かりであろうか。「最も上と最も下が相通じる」と言うのである。

ヌーソロジーにおける意識進化とは、まず「ミクロ=マクロ」の空間概念を発見せよというオコツトの命題から始まる。「大が小を含む」のは分かるが、ミクロ=マクロが成立するということは「小が大を含む」ということになる。これはナンセンスだ。だが実に「空即是色」とはそのことについて言及しているのである。上座部仏教の偉いお坊様ですら否定するほどナンセンスな話。

だがこのナンセンスが成立しているということを見抜く知見は他にも存在している。これを聞いて「絶対矛盾的自己同一」という言葉を思い浮かべる方もいるだろう。哲学者・西田幾多郎の思想である。彼の哲学を一言で凝縮したものが「絶対矛盾的自己同一」。西田より以前に、この概念を明確に打ちだした先駆者はドイツのライプニッツである。ライプニッツのモナドロジー、「個物は全体に含まれつつ全体を含む」というのがモナドロジーの世界。いまで言えばフラクタル。ライプニッツの思想はハイデガーや西田に影響を与えたという。

ライプニッツや西田の思想にある「含みつつ含まれる」概念、「ミクロ=マクロ」が成立する概念、これこそが空即是色が意味するところではないかと思います。偉いお坊様でも見過ごしてしまう概念。この概念が意味するところは「ピラミッド体制の終焉」です。ピラミッド体制は固定的な上下概念が基礎になっています。ミクロ=マクロが成立すればそれは固定的なものでなくなります。人々が真にこの概念に目覚める時、その社会からはピラミッド体制がなくなるでしょう。

さて、ヌーソロジーではこの難しい概念を「空間」として発見しようとします。そして空即是色、つまり「含みつつ含まれる」概念が成立している空間を「次元観察子ψ5」と呼んでいます。この空間が目覚める(顕在化する)ことを「人間の終焉」と言います。人間が終わるのです。人間、ニンゲン、ニゲン・・・つまり「二元性」の終焉です。

ヌーソロジー的に解説すると、「色即是空」とは「二元性の統合」という概念です。「表裏一体」の概念と言えます。先の「色即是無・無即是色」も「色と空が表裏一体」であるということを看破したということです。ワンネスとか非二元とか言います。この段階というのは神秘体験をして一時的にハイになっている状態。しかしすぐに元に戻されます。これでは普段の生活に革命を起こすほどのインパクトを持ち得ないというのが私の結論です。

詳しくはレクチャーに譲りますが、簡単に紹介するとヌーソロジーでは「二元性の統合」には次の段階があることを示唆しています。それが「双対性の統合」です。「双対性の統合」を実現する空間が次元観察子ψ5、第5番目の空間というやつです。二元性の統合はψ3、3番目の空間。それ以前のψ1~ψ2は「二元性の基盤」と考えると良いでしょう。ψ3に目覚めると一時的にハイになります。しかしそれは瞬間的なもので継続しません。必ず元に戻されます。それが第4番目の空間であるψ4。統合の後に分離が来ることは宿命です。宇宙のシステムではいったん統合を果たしても必ず反作用が生じて元の分離に戻されるのです。それが宇宙のシステムなのです(ヌーソロジーではこれをペンターブシステムと呼んでいます)。それで統合した空間ψ3と分離した空間ψ4を再統合する、ψ5「双対性の統合」の登場を待つことになります。このψ5のロジックこそが「含みつつ含まれる」「絶対矛盾的自己同一」「モナドロジー」の世界でもあるのです。

先の仏教の偉いお坊様は、「色即是空」という「二元性の統合」は看破されておられても、次の「空即是色」が間違っていると言われていたのですから「双対性の統合」にまで思い至っておられないのかも知れません。「二元性の統合」で留まっていると「出来る人」と「出来ない人」の格差を生み出します。この場合で言うと「目覚めた人」と「そうでない人」とか。二元性の統合は瞬時の出来事であり必ず元に戻ります。そして指導者本人が「常時接続」していないことを知っていながら指導にあたります。「イケてる時」と「イケてない時」の統合がされていないのです。見性体験は全て過去の話です。そんな状態で展開すると本人の矛盾が組織の矛盾として拡大します。最初から解決していないのだから当然です。おっと饒舌になりすぎました。この辺りはぼちぼちやっていきましょう。

色即是空・空即是色の話題はこれにてひとまず終了です。
それではまた。

とうしん
2014-11-05(Wed) 10:49 未分類 | TB(0) | コメント:(0) | 編集 |
[20140925]
もう一つのブログ「自分教ガイド」に掲載したものですが、ヌーソロジーの内容が濃いために、こちらのブログにもテキストを掲載しておきます。

みなさんこんにちは。とうしんでつ。日に日に秋が深まりを見せています。気温も快適となり思考家にとっては格好の季節となって参りました。
しばらくご無沙汰していましたが、ぼちぼちブログを本格発動したいと思います。

もともとこのブログは、もう一つの拙ブログ(シリウス時代)とは別に脈絡なくお気楽に書けるように設置したものでしたが、いつのまにか硬い記事とイベント紹介ばかりになってしまい・・・ここで本来の主旨に戻り、直感的に書きたいことを書かせていただきますね。

とは言っても今回の記事もまた今月のヌースイベントと関連しているのですが・・・。

ではさっそく本論に入りましょう。

「なぜ空即是色なのか」

色即是空、空即是色。

般若心経の中の一節、知らない人がいないほど有名な文言ですね。
その前後と一般的な訳をご紹介すると

色不異空、空不異色、
色即是空、空即是色。
受・想・行・識亦復如是。

形があることと実体がないことは同じであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在する。
したがって形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっている。
残りの、心の四つの働きの場合もまったく同じことである。

ちなみに、やさしい仏教解説でお馴染みのひろさちやさんの訳をご紹介しておくと

存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。感じたり、知ったり、
意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。

空に対する定義が宗派によって違いがあったりする為に、その解釈にはいろいろなものがあります。最近では現代語訳という若者向けのものがあったり。また般若心経という文献そのものが偽教だとする議論もあるのですが、ここではそのような内容には一切立ち入りません。一番有名な文言である「色即是空、空即是色」、この中でもヌーソロジストとしては「空即是色」に注目するのです。

いま、なぜ「空即是色」なのか。

色即是空・・・つまりこの世は実体がない幻想のようなものである・・・ということについては理解する人が急激に増えてきたように思います。ネットの普及により内外の文献に誰でも気軽にアクセスできるようになって、コアなスピリチュアル情報が多くの方に知られ、それを見た多くの人が共鳴・体験を起こし、またその内的体験を語り合うようになり、内的情報までもが気軽に流通するようになりました。このことによって人類の意識が加速的に飛躍を起こしているように思います。

またハリウッド映画やマンガなどのポップカルチャーの影響も多々あるでしょう。悪く言えば現実がバーチャル化している、仮想化現実が進んでいる。しかし私からすればこの状況は意識進化上歓迎すべきものであります。もちろん昔と比べて極端な犯罪や社会倫理からの逸脱もみられ、憂うべきことも沢山発生しておりますが、同時にその正反対のベクトルが存在している、作用反作用の法則のように現実には意識進化が進んでいます。

最初の「色即是空」は仮想化現実と言えるでしょう。現実と思われてきたものの仮想化。目の前の世界が実体無き「空」であるということを理解し、次第に幻想化(仮想化)して来る・・・。現実を仮想化することで意識が主体の位置に立ちやすくなっていきます。意識が意識らしくなってくる。夢のような意識状態、変性意識への容易なる参入とか。

その反対である従来の現実感(強固な実体を伴っている)というのはこの肉体がベースとなり、この広大な宇宙の中、数千億ある銀河系の中の小さな一つの銀河の中の、これまた数千億ある恒星系の中の小さな太陽系の中の、これまた小さな小さな地球の中に、チリのごとくはかなくへばりついてる私・・・という認識が知らず知らず「無意識化」されて根底に侵入しています。天文学ファンでもない限り、普段はそのような事は考えないでしょうが、自分を肉体とみることで誰でも例外なくこのような認識が背後にセットされているのです。するとそのちっぽけな肉体の中の操縦士のような位置に意識は閉じこめられてしまいます。この事によって意識は虚勢され無力化されます。意識はその巨大なる力を封印されてしまうのです。力が封印されるだけならまだしも、さらに外部、他者から容易にコントロールされるという洒落にならない状況へ置かれるのですよ。

ですから、そういう状況からの目覚めとして「色即是空」の理解というものがある訳ですね。しかもそれは常軌を逸した思いこみではなく、現代物理学や高度な知識人達の言説がそれを支えてきているのです。物質の根底には素粒子があり、その素粒子は不確定な存在で波動でもありエネルギーでもあり、また真空状態と思われた場から発生と消滅を繰り返していたり・・・などと。つまり「この世は実体がない」を地で行っているのが現代物理学なのです。


それで「色即是空」は理解しはじめた。分かるようになった。常識となりつつある。これが現在の状況。ネット上にたくさん出現してきたスピリチュアルリーダー達が語る内容も結局は「色即是空」でしょ。非二元というのもそうではないですか?引き寄せも思考が現実化するも鏡の法則もオポノも何タラもみんなそうですよね。色即是空が前提でないと機能しませんよ、どれも。それで色即是空が分かって皆さんどうですか?どうなりましたか?行き詰まっていませんか?

傲慢かまして失礼しますが、多くの人が「色と空の狭間」で不本意な反復を繰り返していると思います。諦めずに苦悩し続ける人もいれば、煩わしいことは御免とすっかり諦めてしまった人もいるでしょう。最初からそんなのどうでもいいと言われる方もいるかもしれませんが(汗)。

さてここからがヌーソロジーの登場という訳です。いよいよヌーソロジーの出番なのです。「空即是色」を語る時が来たのです。

色即是空の後に続く空即是色。それって同じことを言い換えてるだけじゃないの?とは言わないで下さい。A=BならばB=A、確かに数学的にはそのようになります。色と空の解釈によってはこの論理でこの文を捉える立場もあります。色を現象、有形・無形を問わずあらゆる現象として捉える。その現象は関係性からくるのであり、関係性とは何かの固定された実体ではない、よく見れば何もないのと同じだからそれを空とよぶ。そのような空というものは必ず関係性という現象(色)を伴って現れますということでA=BならばB=A。同じ事を言っているのだが強調する為にひっくり返して言い直しているという事ですね。

異論はありません。ですが私から言わせればこの解釈では「色即是空」と「空即是色」の差異がありません。差異がないのでこれ以上の発展が望めません。差異は力を生み出します。電流は電圧という「電位差」があるところに生まれます。

色即是空と空即是色の間に差異があると見るのは大変意欲的です。発展への意志が感じられます。ですが勢い余ってその差異を「間違い」と捉える方々もいます。「般若心経は間違い?」という本があります。初期仏教であるテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が書かれた本ですが、この本は上座部(小乗)仏教の立場から書かれたもので格式もあり説得力のあるものとなっています。書かれ方が挑戦的なので、般若心経を大切に思ってきた人達から大変な反感を買ったようですが。恐らく長老はそんなことも意図して書いておられると思います。

さてスマナサーラ長老はこの本の中で分かりやすく

「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです

と解説されています。リンゴが色に相当し、空が果物に相当する、つまり空は色に対して上位概念であるという。だから空即是色は「したがって果物はリンゴである」となって、命題として適切でなくなるということです。なるほど論理的な説明です。さらに機能脳科学者・苫米地英人博士はそれを受けて般若心経の訂正を試みています。ここは「色即是無・無即是色」とするべきで・・・という具合に。色(有ること)と無(無いこと)は存在論的には同じであるという見方です。それを見抜く観点が「空」であるとして、空を色や無に対する上位概念とされています。

これらの方々はそれぞれ独自の哲学を持ち、ファンの方も大変多く、私がとやかく言うことは何もありませんが、ヌーソロジストとしては「空即是色」がなおざりにされるのが勿体なく思います。「空即是色」にこそ「人間を超越する」カギが隠されていると言いたい。これは最重要概念です。「色即是空」がポピュラーになりつつある昨今、人々の意識がいよいよ最終段階に入る為の秘訣が「空即是色」にあるのです。

いよいよここから本論となるのですが・・・前置きが長くなりすぎました。続きはまた次回ということに。

とうしん
2014-09-25(Thu) 16:14 精神 | TB(0) | コメント:(0) | 編集 |
[20140820]
こんにちは、awakes(とうしん)です。
2ヶ月ぶりのブログ更新です。来月からはここでも頻繁に更新したいと今は思っています。

とりあえず開きなおってイベント告知から。
前回は初級ヌースレクチャー第2回でした。
ψ1~ψ2という、通常のヌースレクチャーではさらりと流れるところを結構しっかりやりました。
そのお陰で、従来解説の修正点やキモがまたあぶり出されてきました。
詳細はおいおいブログ上でも解説していくつもりです。

四次元空間を考察する時に、従来の数学者・物理学者が陥りがちなのは四次元空間を客観的に考察してしまうという所です。
「客観的考察」が「科学」そのものなのですからこれは仕方がありません。
しかしよく考えてみて下さい。「四次元」を客観的に考察するということは、それはすでに「五次元」になってしまっているのです。四次元を見出そうとしているのにいきなり四次元を飛ばして五次元になっている。そうです、「観察者不在」の考察が原因なのですね。四次元からは観察者が入り込むのです。それが現実の四次元です。数学・物理学では机上(空想)の四次元を扱っているのです。

それで「四次元からは観察者が入り込む」ということで、現実の四次元を見いだすには「空間認識の反転」という作業が必要になってくるのです。トポロジーでは四次元球体は「二つの三次元球体」の練り合わせと捉えることができるのですが、この二つの球体同士が「反転しあった関係」にあるということを、トポロジーの先生方でも見落としておられるように思うのです。というか「客観的考察=観察者不在」ですから仕方がないですけどね。

ではとりあえず、イベントPRスタート。

*************************

さて早いもので、第3回ヌースレクチャーの開催が迫ってきました。

前回(第2回)は「ψ1~ψ2:この時空から脱出せよ」というテーマで宇宙論・時空論といったスケールの大きなテーマを扱いました。物理学や数学の知識が多少出てきたので、「初級」にしては難しいという印象をもたれたかもしれません。

簡単に復習すると・・・
①宇宙の果て、ビッグバンが起きた特異点(=無限遠点)が「自分の意識の位置」であったということ
②実宇宙(外在世界、目の前に広がる宇宙)は無限大に広がる空間に見えるが虚宇宙(内在世界)は、自分を中心として包んだ風呂敷のように閉じているということ
③そして実宇宙の方が幻想(=人間の内面)で虚宇宙の方が実在(=人間の外面)である、通常の認識とは反対になっているということです。

現代のコロンブスたらんと宇宙の果てを目指して宇宙大航海に飛び出した私たちは、実宇宙の限界からいつのまにか虚宇宙に入り込み、やがてたどりついた場所は「自分の意識の位置」であったということです。これが4次元対称性の世界でした。このことを何度もトレースしてみて下さい。
宇宙大航海


第3回のテーマ「ψ3~ψ4:真の主体の位置を発見せよ」
ということで、第3回はもっと身近にこの真理を発見していきます。もっとも身近な空間、それはあなたの目の前・・・・・・そこにこの「虚宇宙」があったということを発見していくことになります。
前回がヌーソロジーの本論スタートとお伝えしましたが、実を言うと本当の意味でヌーソロジーが始まるのがこのψ3からなのです。意識進化の最初の出発はこのψ3という空間の発見に始まるのです。

私たちが何気なく暮らしている生活空間、最初の目覚めはこの生活空間をたたき割ることから始まります。それが「前後の空間の差異を発見する」ということです。「前の空間」と「後ろの空間」という全く性質の異なる二つの空間が、私の生活空間に重なっているとういことを私たちは全く意識していませんでした。それだけではありません。
そこにはもっと重大なことが隠されていたのです・・・・・・。

text by toushin kawase

【神戸初級ヌースレクチャー・第2回】
日時:8月23日(土)
場所:健康道場サラ・シャンティ
神戸市灘区八幡町3丁目6-19 クレアール六甲2F
◎最寄り駅:阪急六甲駅
受付:午後1時~
勉強会:午後1時半~午後5時まで
講師:川瀬統心
費用:事前予約 3000円 当日3500円
テキスト代込み

ルネマグリット
「王様の美術館」ルネ・マグリット 1966年




[20140626]
※前回の続きです。この記事も先に「自分教ガイド」に掲載していたものです。

【無が先か 有が先か パート2】

前回から問題にしているのは「存在論的問い」と言われるものです。「存在」自体を問うているのです。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」。関西弁で言うと「そもそも何で存在してんねん!」ということ。そもそも論・・・というヤツ。横道にそれますが、「そもそも論」は破壊力がありますよ。前提条件をひっくり返すんですね、「そもそも論」は。「そもそも論」をよく使う人は、洗脳されにくい、知らず知らずのうちに自分自信を脱洗脳できる人ですね。コロンブスの卵みたいな発想ができる人です。ところで「なんでやねん!」も「そもそも論」ですね。関西人が「そもそも論」をよく使うということではありませんが、「そもそも論」は「お笑い」に通じます。「あの~すいません?(笑)」とか・・「あの~もしも~し!?(笑)」とか言って、ボケてる人に突っ込む時の発想は「そもそも論」です。最近のお笑いはかなりスキルが熟知されてきてますから、この程度の公式はみな体得してますね。ひな壇芸人とかこのあたりは上手です。おっと、何故か話題がお笑いに流れていく・・・こんなに真面目な話をしてるに(爆)。と、とにかく大阪人の「なんでやねん!」も「存在論的問い」に通じるものがあると。「笑い」は深いということです。これはまたの機会に掘り下げましょう。

ナンデヤネン


さて、人生の目的は何か?死んだらどうなるのか?・・・などと問う前に、「存在」そのものを問う・・この問いの方が第一義的ではないか、ということです。人生の目的とかは二義的なもの。よりプライマル(第一義的)な問題が解けてこそ、二義的な問題を正しく導くことができる・・・これはごく自然な発想だと言えます。

そこでこの第一義的な問いに対しては「二つの立場」が考えられる・・・それが「有先手」か「無先手」であると。まずもってそのどちらかしか考えられない、あり得ないと。それで「無先手」・・・何もないところから存在が生じた・・・というのは感覚的におかしいのでは?ということを前回に書きました。古代インドやギリシャの哲人の言葉にもそれがありました。

だったら「有先手」ということになるのですが、あからさまな「有先手」の宣言が見あたらないと。哲学者はみな尻込みしている・・・というと叱られるかも知れませんが、立派な哲学的態度としてはこれを疑う。疑うということは、既に「無先手」であるとしました。それは「無知」という状況だからです。なんでそんなことが言えるかというと「無知」の反対・・・それは「有知」というよりも「全知」です・・・「全知」体験というのがあるからです。私にも多少あります。いま毎月の関西ヌーソロジー教室では「臨死体験報告に見る創造空間」をテーマにやっていますが、ここのところを追いかけているのです。臨死体験の中にはこの「全知」体験がよく出てきます。教室で題材にしている「アニータ」さんの体験なんかがまさにそれです。「全てが分かった」という状態。いわゆる「悟り」とか「覚醒」というものでしょうか。

それで、悲しいかな、哲学は「無先手」だとします。無先手は突き詰めると唯物論と同じ状況をもたらす。それは無が先ということは存在理由が見あたらなくなるということです。つまり存在したのは必然ではなく偶然ということになります。もし必然ということは理由があることと同じで、理由があればそれはもう「無」ではありません。無に理由などない。あれば無じゃない。存在理由がみつからない=偶然の産物ということになれば、唯物論と同じだということです。これは人間の精神に対しては深刻な問題となる。自暴自棄で犯罪の温床となる何とも病的で恐ろしく不安定な状況を精神にもたらすと私は思う。

それで救いの手が「信仰の世界」にあるのでは?ということなのですが、前回は宗教圏も「無先手」ではないかとお伝えしました。ローマ法王による「ビッグバンそのものを探求してはいけない、それは神の御業だから」という言説に代表されるように。分からないことを「神の御業」にするということは、一見すると「信仰深い」態度ということになるでしょうが、それは理性を虚勢しているとも言えます。この「理性の虚勢」が問題となる。理性もまた自然の発露ではないでしょうか。それを虚勢するのは不自然で不健康な気がします。本当は疑問が出てくるのにそれを抑圧するというのは。よく見てみると「分からない」ということと「神の御業」というのは同義語反復、トートロジーになっていませんか?・・・と言っても「分からない」のはより一層深刻な状態をもたらしかねませんから、「神への信仰」が大切な役割を担ってきたことも事実です。

さて「分からない」ことを疑う科学や哲学だけでなく、疑う替わりに信仰を持ってくる宗教圏までもが極論を言うと「無先手」の状況であるということです。それはつまり「存在理由が分からない」という状況に陥っている。この状況は「精神が無に抑えられている」というのがヌーソロジーの見方です。ここからひっくり返さなければならないと。それがヌーソロジーが示唆する「有先手」です。ここで「有」とは精神のこと、つまり精神が先手の理論です。それに対する「無」が物質。ヌーソロジーでは物質とは無の別名(付帯質とも言う)です。物質とは実は無、実体のないもの。そして精神とは有って有るもの、ずぅ~と有るものであると考えます。私たちの本質は精神ですから、私たちもまた「ずぅ~と有るもの」であるとします。つまり死なない。永遠の存在なのです。

ここで出てくる精神とはイデアとか形而上の世界に通じるものです。その意味で一般的なスピリチュアルで言う霊界とは違います。霊界というのはまだまだ「表象」の世界と言えます。形而下だと言うのです。ですから霊界主義の人はヌーソロジー的には唯物論者と何も変わらないと見ます。まだまだ私たちの本質まで突き当たっていない。この状況で「自分教」などと言ってもただのエゴイストになりかねません。その他の「○○教」もしかり。表象を越えることが物質と自我の解体を意味している・・・というのがヌーソロジーの文脈です。

さてこのような大胆なる「有先手」宣言をしたいところですが、これで孤立無援ならただの狂信者になりかねません。それでは先ほどの宗教圏とも違いがなくなります・・・。理性が心底納得する「有先手」を出してきてこそ、神議論に替わるものとなりえましょう。そこに強力な味方が現れた・・・その名もベルクソン、その人であります・・・ということで、ここからやっと前回の続きが始まるんですね。今回も尻つぼみになりそうな予感。

ベルグソン

アンリ・ベルクソン(1859-1941)はフランスが生んだ天才的哲学者。1927年にはノーベル文学賞を受賞するほどの名声を得た人です。これは強力な味方ですね。そのベルクソンは何と言っているのでしょうか?

ベルクソンは「無が有に先行するのは錯覚である」としたのです。一見すると無の方が有より単純で基本的であるように思える。だからまず無があって、その次に有、つまり存在がその空虚を埋めるように出てくる・・・とついつい考えてしまう。ですがその感覚は、人間の行動、生態学的なあり方から来ているとしました。


●およそ人間の行動の出発点に不満足があり、だからこそまた欠在の感じがあることは争えない。ひとはある目標をたてなければ行動しないであろうし、あるものの欠如を感じればこそそれを求めもする。そのようなことで、私たちの行動は「無」から「あるもの」へと進むのであり、「無」のカンヴァスに「あるもの」を刺繍することは実に行動の本質をなしている。
-アンリ・ベルクソン『創造的進化』(1907年)-


私たちの普段の生活は、空虚を埋める、無いから得ようとする、というあり方が普通であるというのです。お腹が空くから食べ物を得ようとするわけです。当たり前ですよね。お金がないから欲しい、将来はこうなりたい・・・も同じ。でもベルクソンは錯覚の原因がここにあると洞察したのです。

●こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たちの思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象は空虚をうずめるものだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなかに根をおろす。私はこの錯覚を消散させようとこころみてきた。…
-アンリ・ベルクソン『創造的進化』(1907年)-


「事実上はそうではないにしても権利上はあらゆるものに先在する」・・・無先手というのは、事実ではなく、私たちの生活の中で権利上に出てくる錯覚・・・つまり「オラオラオラ!どかんかい!」といって「幅をきかせている」状況なわけですね。事実じゃないのに「声が大きいだけ」ってことです、無先手ってやつは。

無先手の方が声が大きい。だから無が有の先手を取る状況に対して疑わない感覚が生じてしまう。何にもないところから存在が生じるという恐ろしいほどに「?」なことに対して疑いもしないのです。これでこの世界の前提条件をすんなりと受け入れてしまう。これで人は悪い意味で哲学的ではなくなってしまう。これは「受け入れ」ではなく無知に基づく盲信です。ところで最近のスピリチュアルでは「この世界が実はゲームでありホログラムである」という事に気づく人が増えて来ましたが、私たちがゲームとしてのこの世界に本来の自分を忘れて没入してしまう原因もこの辺りにあるのでは?ということです。

老婆心ながら、この世界がゲームでありホログラムだ!といくら喝破したとしても、では本質は霊界だ!となってしまうと、また新しいホログラムを上書きしているだけですよというのがヌーソロジーの立場です。この辺り、大分伝わるようになってきたかな?「自分教」を宣言する為の大前提ですからね、ここは。

この世界の本質は「精神」です。精神は「有って有るもの」です。ずぅ~と有り続けるもの。ずぅ~とあるんです、始まりもなく終わりもなく。αでありωであるということですね。そしてその精神というのは「偉大なる創造主」という一者のことではなくて、「わたし」であり「あなた」のことですよ、と。これは表象の世界ではなく、イデア、本質の世界のことです。本質は永遠であり、永遠であるならばそれは「自存」です。他からエネルギーや条件を投入されないと存在できないようなものではないと。だから完全であり全知なのです。それが「あなた」の本質、本当のあなたですよと。

ではそんな完全な状態からなぜ創造が起きるのか?という疑問を持つ人がいたとすれば、その人は実に思慮が深い。そうです、完全で調和が取れているとしたら、そこからの変化を嫌うはずです。そのような動きは起きてきようがない。完全に調和がとれているわけですから。何かの「ひずみ」がなければ動きは生じない。その「ひずみ」は何なのか?ということです。ライプニッツも「完全なる神」を想定してしまったので、その神から悪が生じたということで随分と頭を悩ませたようですが。「一人神」を設定するからそのような論理破綻が生じる。その「ひずみ」とは「わたしとあなた」のことだと言うのがヌーソロジーの立場です。そしてその「ひずみ」や「対称性の破れ」といったものを幾何学的に見ていく。構造として認識することができる視力をもとうとするのがヌーソロジー。そうして「精神が先手を取る認識」を生み出していく試みです。

双子の精神・・・これが宇宙の根源であるというヌーソロジーの世界をこれからも共に探求していきませんか?・・・ということで、なにやら支離滅裂なので、最後にコーセン氏のブログから引用します。ベルクソンまで出したのに肝心の「純粋持続」まで語れなかったので、そのごまかしだす(爆)

ずっとつづく(海)


「自分の中にずぅーと続いているものがある」「そして、それはずぅーとあり続けているものであり」「始まりも終わりもなくずぅーとただ在る」それがベルクソンのいう純粋持続であり、ベルクソンにとってはそれがそのまま「精神」の意味となる。宇宙の実体とはこうした純粋持続としての「精神」にある。これがベルクソンの哲学の根幹だ。
この精神は、当然、人間の中にも息づいている。ただ、人間は自我を持つために、この純粋持続の極めてローカルな部分の中で閉塞されている。それを自分の一生と呼んで、死ねばすべてが無くなるとか思っている。ベルクソンに拠れば自我が死んでも純粋持続は実体としてあり続ける。

OCOT情報は「人間はまもなく死ななくなる」と言っていた。もちろんこれは人間の肉体が不老不死になるとかいうことではなくて、このベルクソンのいう純粋持続の中に分け入っていく超感覚的知覚を人間がまもなく獲得するようになるということを意味している。残念なことに現在はベルクソンの思想は神秘主義まがいのものとされ、今ではすたれてしまっているのだけど、それはベルクソン自身が純粋持続が活動する風景を具体的に描けなかったからにほかならない。
それが具体的に描写され、さらには多くの人に相互了解されるようになれば、それは新しい現実を作り出すことになる。その現実はもはや人間の現実ではないだろう。存在における実体(純粋持続)が持った現実である。そうした現実が今から開いてくると僕は思っている。

コーセン氏のブログ cavesyndrome 2013/01/12 より


いったんこのシリーズはここでおしまい。それではまた。
by Awakes(とうしん)


2014-06-26(Thu) 20:41 精神 | TB(0) | コメント:(7) | 編集 |


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